SEIWA | Leather Craft :: Fabric Dyeing Forum | 染色・レザークラフトフォーラム | ブライアン・ホワイトヘッド|BryanWhitehead



日本の染織に惹かれ、
藍を愛して藍と生きる

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Profile/プロフィール
ブライアン・ホワイトヘッド(Bryan Whitehead | 藍染め・草木染め・織物職人)
藍染・織物職人。1964年カナダ・バンクーバー出身。1988年来日。仏教絵、墨絵などを学んだ後、織物と出会う。1993年、日本の織りと染めを学ぶため、神奈川県相模原市緑区(旧藤野町)に移住。同地はかつて養蚕が盛んだった地で、養蚕家の元に7年間通い、古くから伝わる日本の伝統的手法による養蚕を体得。藍染めも栽培・乾燥・発酵から染めまでを行なう。2005年頃から、国内外の若者に向け、日本の織物と藍染めの技術を伝えるワークショップを主宰。有名ブランドのデザイナーも訪れるなど、豊かな文化と本物の技術を伝える場として好評を博す。
Japanese Textile Workshops








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古民家と蔵はすべてブライアンさんが補修した。
モノの大量生産が加速する戦前、蚕糸業は日本の主要産業のひとつだった。しかし終戦後、1940年代後半には、絹に代わりナイロンが登場し、産業として衰退する。里山の風景を残す神奈川県相模原市緑区(旧藤野町)も、かつては養蚕が盛んな地域だった。しかし転廃業が進み、現在は数戸残るのみ。ブライアン・ホワイトヘッドさんは、この地で伝統的な手法による養蚕・織りを現在に伝える。

古くからの民家や土蔵が残る町並みを走り、JR中央本線「藤野駅」から中央自動車道をくぐるトンネルを抜け、佐野川と並んで山側に伸びる県道を20分ほど登った鎌沢地区。

県道の幅は、次第に狭くなっていく。車のナビゲーションに所在地を登録し、その通りに道を辿ってきても、初見ではどこに工房があるのかわかりにくいだろう。県道から、ふと横を見ると坂道があった。


ブライアンさんの工房は、県道を曲がり、見上げるほどの急坂を登った先にあった。


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工房から見える里山の風景。山の斜面には茶畑がある。
ブライアンさんは、この地で築150年を越える元養蚕農家の古民家を工房に改築し、藍染・織物職人として暮らすかたわら、ブログを通じて世界中に藍・草木染め、織りの情報を発信している。さらに10日間の日程の中で伝統的な手法による染め、織りを体験するワークショップを主宰。世界各国から参加者が集まる。

来日は1988年。日本は好景気の絶頂期に向かう時代だ。彼は大学在学中、休暇を利用しては世界中を旅して回ったという。

初来日から3年間は、染め・織りと異なる日本文化を学び、生活の糧を得ていた。そこから約4年半後、この藤野の地の古民家を借りられることになり、養蚕や藍染め・草木染めを通した作品作りを行なうようになった。


------今回SEIWAは、日本人以上に日本の古き良き伝統文化を愛するブライアンさんの元を訪れ、職人としての矜持、今と未来を聞かせていただいた。


『大学生の頃、休暇を取得しては世界中を旅した。』

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昔のことを話すよ。今から35年前のこと、16歳の頃、カナダの材木店に勤めていたんだ。もちろん初めての仕事だよ。夜12時から朝7時までの時間帯だったから、お給料は今の時給で言うと1,000円くらいあってとてもよかった。高校から大学にかけて昼間は通学し、夜は勤めていた。大学生になると、時給は2,200円位。とても魅力的だった。

それに労組が強くて、休暇も年6ヵ月も取れたんだ。医療保険など手厚い保障もついていた。休暇を取得すると世界中旅をしたよ。ヨーロッパを回ったり、南米、インドなど。そんな生活を25歳頃までしていたんだ。

大学卒業後は広告制作会社に入社した。配属はクリエイティブ部門だった。でも給料が安かったんだよ。大卒後も材木店にそのまま勤める気はなかったけど、こんな安月給の会社にいつまでもとどまるつもりもなかった。材木店も広告会社も勤めたくない。その後、3年間ビジネススクールに通い、日本のマネジメントシステムを勉強した。日本は「エコノミック・アニマル」と言われ、世界中で火花を散らしていた頃だ。

当時、どこか外国に住みたいと考えていたけど、初めから日本に住むことを希望していたわけではない。興味もなかった。でもヨーロッパ以外の国々で外国に住みたいとは思っていた。日本に来る直接のきっかけになったのかはわからないが、子どものころ日本人の親戚がいた。その人は優しく、私にとてもよくしてくれた。その縁があったのかも知れないね。


『来日は1988年、日本の伝統文化を学んだ。』

初めは遊びだったんだ。3年かけて、墨絵や仏教絵の書き方と掛け軸の作り方などを学んだ。それらは外人の目から見て、とてもエキゾチック。東京都練馬区の観蔵院というお寺で学んだよ。曼荼羅美術館があって、そこで勉強した。インドに行ったときも、仏教はとても興味深かった。日本は色々な神様がいるのが特徴的だね。そうして絵を学んでいたんだけど、まだ描き方を習っている最中にもかかわらず、描いた墨絵がすぐに売れたんだ。それだけでなく、注文も来るようになった。「このままだと絵描きになってしまうな」と思った。


『絵描きではなく職人になりたい、と思った。』

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私の思い描く職人のイメージは、その道を極めた達人というもの。「80歳のお爺さんになったらこうなりたい」と思ったよ。

人生をひとつのことに集中して、極めたその姿。絵描きは仕事として自由すぎるし、アーティストの目線で見た現代アートは、なんだか中途半端に感じられた。

いい作品をつくる職人は、忙しくて自由がない。私も「藍のタネと葉っぱという限られた中に、自分の人生を賭けよう」と思ったんだ。日本の職人がいる工房は、キッチンと工房、玄関というような区切りがない。生活と密着している。とても感銘を受けたね。


『仕事と自分の人生が合体しないと、人生は成功できない。』

それを体現しているように感じたのが、日本の職人だったんだ。世界中のどんな職人、クラフトマンでもなくね。思えば、大学卒業後に入社した広告会社は、まるでお役所のようでおもしろくなかった。日本の宮大工の姿には特に憧れたね。学生の頃から日本の建築や建築哲学の本はよく読んだし、今も大切にしているよ。本を読んで、仕事と人生の合体を感じた。宮大工になろうと、一時は本気で考えていたんだよ。

だからその意味では当初、藍染めは趣味として続けていければいいと思っていたんだ。仕事にならなくてもいいと。ところが藍染めをはじめてみたら、これほど熱中できるものはなかったんだ。



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工房の2階にならぶ織機をはじめとした数多くの古道具達。極太の梁と畳と床とソファが和洋折衷の様相。



------ブライアンさんの収集した養蚕の古道具は、部屋2つを埋め尽くすほど。だが、そのすべてが実働品だという。

また、所蔵する膨大な染織・テキスタイルをはじめとした日本文化関連の書物は、一部屋すべての壁にぎっしりと並ぶ。以下その一部をご紹介したい。

ブライアンさんは染めの元となる藍染めの染料から作る。畑を耕しタネを蒔くところからはじめ、カイコの餌となる桑を育て、まゆをとり、糸を紡ぎ、染め上げ、織るまでを一人でこなす。機織りや藍染めを経験したことはあっても、元からすべてを作る人は職人や作家でも少ないだろう。昔の養蚕家の手法を受け継ぐ伝統的な方法でだ。







『藤野は古くから養蚕の盛んな地域。まず養蚕の方法を学んだ。』

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ブライアンさんの育てたカイコから取った「まゆ」
ここ藤野の近くの集落で今も養蚕をしている農家を教えてもらい、日本人のおばあさんから、カイコをまゆから育てる方法を学んだ。そのおばあさんは、カイコをまゆから育て、糸を紡いで、染めものをして着物をつくっていた。

教えを請い、蔵の中でけやきの引き出しの中から取り出された彼女の作品を見せてもらったんだ。その瞬間に決意したんだ。「私は死ぬまでこういう仕事をする」とね。

その着物は、売るためではなく、自分が着るためにつくったものだった。
とても美しかった。

養蚕に触れて色々なことを学んだよ。カイコを育てるには桑がたくさん必要だ。そして桑にも種類があるから、苗から作って育てた。



私は養蚕を学ぶため、それまでの仕事をほとんど辞めて7年間彼女の元に通った。カイコの育て方、種類、交配の方法、糸の作り方、染色の方法など。カイコは、交配の組み合わせによって好みの糸を得られる。そういったことは彼女の元でしか学べないと思った。よそでは二度と学ぶことはできないと思った。

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日本人でもどのくらいの人が知っているんだろう。彼女は今94歳になった。藤野は養蚕がかつて盛んだった土地。でも多くの人はカイコを育ててまゆを得て、それを「売る」ための養蚕だった。

彼女は違った。彼女は今の時代にはとても珍しく、仕事ではなく、美しいものを作るために養蚕をしていた。私はまず自分のために、たとえお金にならなくても、彼女のように養蚕をしたい。

古い養蚕の道具を集め、好みのまゆが得られるようになるまで5年かかった。まゆから糸をとり、糸を紡ぐ作業は大変だけど大好きだよ。

『織物は人間として、よりよい文化を体現するためにやっている。』

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養蚕も織物も、日本古来の伝統だけど今の日本人はほとんどやらないよね。

私はカナダから来たけど、日本の伝統だからやっているわけではないよ。もちろん日本の独特の文化として特徴的だけど、同時に「人間の文化」だと思っている。

織物に関しても、日本人の立場で取り組んでいるわけではない。人間として、よりよい文化を体現するためにやっているんだよ。

今は針に糸を通せない人もたくさんいる。それは人が人らしく生きていくためのひとつの方法だよ。




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今の時代に、まゆからカイコを育てて反物を織ったり、染めたりするのってとっても贅沢だとは思わないかい?

多くの普通の人が考える贅沢って、モノを買ったり、お金で買えるものを基準にして考えがちだけど、その贅沢とはまったく違うね。私は本当の贅沢の意味を知っている。

『今はここで学んだことを、主に外国人に伝えるワークショップをやっている。』

思えば、こんなに長く日本にいることになるとは思わなかった。今はここで学んだことを、主に外国人に伝えるためのワークショップをやっているよ。10日間この里山に滞在して、染めや織りを体験してもらうんだ。

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今は藍染めがブーム。やりたい人がいっぱいいる。ロシアからワークショップで来た人は、畑で栽培するところからやったし、彼は今はタイで藍染めをしてるよ。興味のある外国人はいっぱいいる。藍の種類は国ごとに違うけど、方法は活かせるしね。日本と韓国は、発酵させてインディゴの成分を引き出す技術が優れている。

『本当にいいものは何かと考えたら、本藍で時間と手間をかける、この方法しかない。』

私は製品を作るために藍を育てているわけではない。どれだけ時間と手間がかかってもOK。化学藍が主流の中でも、本藍でモノづくりをしていれば、好きな人は来てくれるし、本当にいいものは何かと考えたら、この方法しかない。

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10日間共に過ごすための宿泊ルームも完備されている。
これまでフランス、南アフリカ、リヒテンシュタイン、イタリア、シンガポール、オーストリア、ブラジル、ドバイなど世界中から参加者が来たよ。予約はいつも一杯で、とっても喜んでもらえてるよ。来年の予約も夏の時点で全部一杯なんだ。

参加者は大学生のグループが多いね。学生と先生だね。中にはこの染めの文化そのものに結局馴染めない人もいるけど、10日間寝食を共にすれば絆も生まれる。

こうして日本の大切な、豊かな文化を外国人にもっと広めていけたらと思うよ。興味を持って見てくれる外国人は、まだまだ世界中にたくさんいる。私はその窓口。将来どうなるかわからないけど、このワークショップはこれからも続けていくつもりだよ。



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工房入口で。ブライアンさんとSEIWA社長・村山伸一
[インタビューを終えて]
今回SEIWAは、約3時間に渡り、歴史を感じさせるブライアンさんの工房で、職人としてのこだわり、これまでのこと、今の活動を聞かせてもらった。ブライアンさんの話からは、来日以来20数年にわたり、真摯に理論を学び、実践を通して本物を知り、本物を提供してきたことが随所から伺えた。

ブライアンさん曰く、日本の伝統文化に対し、日本文化だから取り組んでいるのではなく、人が人らしく生きるための素晴らしい文化だから取り組んでいると言う。一方で、日本の職人を見た時に受けた衝撃が今の職人としての矜持につながっている、とも言う。

職人として、日本人がほとんどやらなくなった誇るべき伝統文化に愛情を注ぎ、真摯にモノづくりに取り組む姿は、日本に対する愛情が感じられ印象深かった。

ブライアンさんには、これからも世界各国の若者に、藍染めをはじめ、日本の伝統文化を新しい形で広める伝道師として、なおいっそうご活躍していただくことを期待したい。


尚、ブライアンさんは海外の方と一緒にSEIWA高田馬場店によく来店され、特に海外の方には「紺屋藍」を積極的に勧めていただき、SEIWAとして感謝に堪えない。

聞き手 SEIWA 社長 村山伸一 写真 企画部 岡田和也



ブライアンさんの作品紹介

ここに紹介する作品は、2015年8月にSEIWAギャラリー(SEIWA高田馬場店併設)で実施した「藍そめ展」に出展していただいた際に、お借りしたものです。

スヌード

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ストール

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写真右は、ストールの柄を拡大したもの。